#33 「ここで逃げ出すわけにはいかない」行政マンの覚悟

 

大家英明さん 志賀町商工観光課課長 企業誘致対策室室長

「心が折れそうになったことはないのですか?」と聞くと、しばし沈黙の後、声のトーンをひとつ落として、「ある」という答えが返ってきた。

「もう一回、震災業務をやれっていわれたら、うーん、辞めるかも……」。

志賀町商工観光課課長の大家(おおいえ)英明さん、行政マンであり、被災者でもある。

2024年1月1日、志賀町福浦港の自宅で、家族と過ごしていたところを大きな揺れが襲った。

「びっくりしましたね。もう止まるか、もう止まるかと思ったんですが、揺れが収まらなくて。地盤のしっかりしている福浦港でこれだけ揺れたんなら、他のところは絶対にひどいなって、感覚で分かったですね。東日本大震災のイメージがあったので、揺れの次は津波やなって思って」

妻、一緒に暮らしている義父、帰省していた次男夫婦ら5人と飼っているイヌを連れ、高台にある旧福浦小学校へと避難した。

「あの日は天気も良くて、始めはちょっと甘い感覚でいたかもしれない。『揺れもすぐに収まるわ』って、地区の人たちと海を見て、『ああ、怖かったね』みたいなことは言っていたんです」

しかし、時間が経つにつれ、避難してくる人は増え、グラウンドにもたくさんの車が入ってきた。避難所の管理・運営が必要だと感じたという。

「『車は運動場に回しましょう』とか『交通整理しましょう』となった。中には、『津波が来るから、車を海の方に回して、お年寄りとか歩いている人を助けに行くわ』っていう人がいたり、おじいちゃんが家に帰ろうとするのを、おばあちゃんが『じいちゃん、じいちゃん』って止めていたり。『それは二次被害になるからやめとけ。もうちょっと待って』と言うんですけど、パニック気味になって……。そんなやり取りが続きました」

福浦区の住民は200人あまりになるが、多くの人たちが帰省していたことを考えると、避難所には500人ぐらいは居たのではないと大家さんはいう。夜10時ごろ、大津波警報は解除されたが、福浦港には電気が来なかったため、妻と次男夫婦、義父は暖の取れる避難所に身を寄せた。大家さんは一人、旧福浦小学校に残り、地区役員と明日やらなければならいこと、やれることを協議し寝ずの一夜を過ごした。

富来小学校(2024年1月1日)=志賀町提供
稗造防災センター(2024年1月14日)=志賀町提供

明けて2日。長男は消防士で、朝には被災現場に向かった。長男家族は富来行政センターへ避難していたが、生後1カ月半と2歳に満たない子どもがいたことから、大家さんの奥さんだけが長男の嫁を気遣い富来行政センターへ駆けつけ、3日間知らない地域での避難所の生活を余儀なくされた。その後、親戚を頼って金沢へ、さらに次男の住む白山市内のアパートへと、転々と避難生活を送った。大家さんは家族と離れ、独り避難所に留まり避難所の管理運営を続けた。避難所のトイレの、生温かい排泄物処理にはうんざりしたという。

「愛知県から2人、支援隊が入る予定だったんです。でも『この避難所は私の地元で、知っている人ばっかりやし、応援は1人でいいわ』って言って、町の災害対策本部とやりとりしながら、避難所を回していました」

3日、町役場に出勤すると、待っていたのは避難所を回る仕事だった。

「行政と住民の間で乖離(かいり)があったりするので、そこの不満とか要望を聞きに行くのが仕事でした。午前中に5カ所から6カ所を回って、戻ってきたら、聞いてきたことをまとめて報告する。できることは、それを手当てするということをやっていました」

時には住民の不安と不満の受け皿とならなければいけないが、行政マンであると同時に被災者でもある。

「住民からの要望は、『あれがない、これがない』とか、『あの道、いつ通られる』とか、『水はいつくるがや』とか……。避難している住民は不安なんで、ときには口調も強めになってしまうんでしょうけど、そこは『そうや』って自分に言い聞かせて。そこでプチンとなって、『こっちやったって、被災者やわ』ってやったら、もうもう終わり。そこは真摯(しんし)に受け止めるしかない」

大家さんは1967年(昭和42年)旧富来町生まれ。富来高校を卒業後、当時の富来町役場に就職した。富来町役場は2005年(平成17年)に合併し志賀町役場になったが、役場業務一筋に歩んできた、たたき上げの行政マンである。発災時は生涯学習課の配属だった。「避難所の支援の担当課でもあるんです」という。

避難所で寝泊まりする生活は3~4週間続けたのち、まだ水はきていない自宅に戻り、家族と一緒の生活が始まった。

「家族の避難生活が終わったら、楽になりました。約2週間は家族が心配でした。でも水はきていないけど、とりあえず避難所から家に帰ったっていうところで安心しましたね」

「長男は消防士なので、あんな災害が発生して、すぐに仕事に行かんなん。だから家は男手がなく、女手だけ。どうしても仕事がメインになってしまって……」

自衛隊の炊き出し(西浦防災センター、2024年1月15日)=志賀町提供

大家さんは能登半島地震後に生涯学習課から商工観光課に異動になった。今後の観光について聞いてみた。

「今、能登というところは、反対に注目を集めているので、これを利用しない手はない、マイナスをプラスにすることを考えないといけない。メディアでも、志賀町ってこんなところなんだということを紹介する機会が増えたと思います。石川県が推進している復興応援キャンペーン『今行ける能登』を活用して、みなさんに来てほしい。ただ、財源の問題があって、まずは復興住宅と子供達の小中学校を最優先でやるっていうのは当然のことです。生活再建が重要。一丁目一番地ですから」

さて、冒頭の「もう一回、震災業務をやれっていわれたら、辞めるかも……」という話には続きがある。大家さんは言う。

「みなさん行政を目指して、行政マンになりたいと思って、そういう精神で役場に入ってきているから、ここで逃げ出すわけにはいかない。やっぱり目指すものがあって、ここの採用試験を受け、入ってきているわけですから」

そして、大家さんは皆さんにと、お礼のコメントを寄せた。

「今回の震災で、地域の協力、翌日には届いた全国からの物資支援、そしてボランティアの方々の活動、本当に感謝します。
当地域出身で帰省していた避難者の中には、東日本大震災に派遣経験のある保健師もおり、簡易トイレの使用方法やコロナ対策などを指導してもらい、避難所運営に協力をいただきました。

『共助』は難しいと本心思っていましたが、地域の方々の惜しみない協力があったからこそ、避難所運営ができました」

「復興物語」では、みなさんに能登半島地震の際に撮影したスマートフォンの画像の提供をお願いしている。当時の記憶を聞き書きし、画像と一緒にアーカイブしていくというのが狙いである。大家さんにもスマホ画像の提供をお願いしたが、「いやー、撮ってないな」とのこと。「家の写真とか、避難所の様子とか……」と聞いても「撮ってないわ」。画像を撮る余裕すらなかった、というのが本音のところでは。今回、掲載した画像は志賀町から提供してもらったものだ。

志賀町役場本庁舎 商工観光課

〒925-0154石川県羽咋郡志賀町末吉千古1-1
0767-32-9341
https://www.town.shika.lg.jp/jouhou/kakuka_shisetuannai/honcyousya/kankou.html


〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)

1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」


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