畑中望さん のんみファーム代表
志賀町の西海風無(さいかいかざなし)。およそ160世帯が暮らす海辺の集落だ。風無という地名には、風が止み海が穏やかであるようにという願いが込められている。そんな生まれ故郷の西海風無で、キクラゲの栽培を始めた男性がいる。かほく市で鉄工溶接業を営む畑中望さん。中学校を卒業すると故郷を飛び出し、金沢で働き始めた。キクラゲに込めた思いとは――。
2024年1月1日。実家に帰省しようと志賀町内を車で走っていたときだった。スマートフォンが緊急地震速報を知らせるアラームを響かせた。1度目の地震はやり過ごしたが、その4分後に2度目の揺れが襲った。経験したことのない揺れだった。「これは尋常じゃない」と思い、道路沿いのドライブインの駐車場に車を止めた。
「周りの景色が怖かった。瓦が落ちてくるし、電信柱が右に左にと揺れて、倒れるんじゃないかと思った。車をどこに止めていいか分からなくて、身の安全を確保するのが精一杯。どういう状況か分からず、とりあえず車の中でじっとしているしかなかった」
実家の兄に電話をすると、「家族で旧西海小学校に避難しているから、直接そっちに来てくれ」と告げられた。道路は崖崩れが発生し通行できなくなっている箇所があり、歩道に乗り上げ、車体が木の枝をこすりながら、海辺の道を急いだ。
旧西海小学校に到着すると、すでに多くの人が避難していた。
「地区の人たちが、みんな来ている感じでした。車は何百台か……。でも食糧があるわけでもないし、備蓄もないし、電気も来ないし。とりあえず高い所へ逃げたっていうだけですよね」
グラウンドは地割れしている箇所もあったことから、避難していた人たちは旧西海幼稚園に移った。そして畑中さんは、誰にいわれたわけでもなく、復旧活動に走り回る消防団の手伝いを始めた。それは畑中さんにとって、当たり前のことだった。
「まずは暖をとるため、ストーブをかき集めてきた。それから、食事の配布とか、送られてきた支援物資を運ぶとか。あと基本は、水汲みですね。20~30メートル離れたところに湧水が出ているんですよ。ストックしておかないとトイレが流せないので、夜中でも1時間に1回とか、2時間に1回とか水を汲みに行っていました」
畑中さんは志賀町西海風無生まれ。中学を卒業すると、高校へは行かず、金沢に出て建築会社で働いた。
「とりあえず田舎が嫌だった。当時は若かったですからね。昔はあんまり、いい子じゃなかったんです」と畑中さん。「勉強はあんまり好きではなかった?」と聞くと「あんまりどころか……」と笑う。「ご両親は心配したでしょうねと言うと……。
「『心配した』と聞いたことないです。父や母とは、ほとんど口をきかなかったので。でも、心配したでしょうね。まあ、ばあちゃんが一番心配していたと思います。両親は共働きなんで、幼稚園の送り迎えとか全部ばあちゃん。僕は男3人兄弟の一番下なので、可愛がってくれて。正月とか祭りで帰ったら喜んで、20歳になっても僕にだけお年玉くれるんですよ。お年玉を渡すと帰ってくると思っていたのかも。もうだいぶ前に亡くなったんですけど」
その後、大阪に出て働いたが、25歳の時に金沢に戻った。それを機に西海風無の壮年会の集まりに顔を出すようになった。
壮年会とは、地域の祭礼や宗教行事を支えるために組織された団体だ。祭りの運営の中心的な役割を担う。
「西海風無では高校に入ったら、壮年会所属になるんです。45歳までなんですけど、途中で辞めたいといえば、名前は消します」
西海地区では、毎年8月14日に行われる西海祭りが有名で、女性もキリコを担ぐ珍しい祭りだ。出漁や航海で不在がちな男性に代わり、女性が祭りに参加するようになったという。


「中学校、高校生ぐらいの頃は、祭りが近づくと、遠足の前の日みたいに寝れなかった」と畑中さん。故郷を離れても、祭りと正月だけは実家に帰っていた。
西海風無壮年会には県外在住者も含めて約30人が登録している。月1回、定例会を開き、祭りの準備を進めている。
「16歳のころは、年上の人がいっぱいいたんで、壮年会はうっとうしいなぁみたいな感じがあったんですけど、大阪から帰って、壮年会を手伝うようになったんです。しょっちゅう富来に帰って、同級生と飲んだり、後輩と飲んだり、先輩と飲んだり。地元のそういうつながりは、いいなって思って」
帰省中の畑中さんを地震が襲ったあの日。避難所で活動する消防団のメンバーは、壮年会のメンバーと重なる。だから、畑中さんが消防団の手伝いをするのは、自然な流れで、当たり前のことだった。

畑中さんは来年、西海風無壮年会の会長となることが決まっている。伝統の西海祭りを取り仕切ることになる。
「今年は副会長ですが、来年は会長っていう立場になる。進行側になると、ただ単に遊んでお祭りするっていうイメージじゃないんで、昔よりはしんどいなあっていう思いはあるんですけど」
祭りをしきる覚悟を定めた一方で、能登半島地震で変わってしまった故郷に胸を痛める。
「更地とか、ブルーシートが掛かったままの家とか……。町の風景が変わりました。ショックですね。後輩や同級生の実家がなくなるとか、親しい人の家がなくなって、帰ってこられないとか。それこそ祭りに行きたいけど泊まるとこないとか」
それでも最近、うれしいことがあったという。
「去年あたりから、壮年会に顔を出しはじめた若い人が2人いて。定期的に来てくれているんです。地域に若者は減り続けているし、壮年会が嫌やという気持ちも分かる。だから、うれしいですよ」
畑中さんは今年「のんみファーム」を立ち上げた。西海風無でキクラゲを栽培するためである。「のんみ」は、彼の名前の「望(のぞみ)」のあだ名で、みんなに「のんみ、のんみ」と呼ばれていたことに由来する。6月、実家の裏にビニールハウスを建て、キクラゲの菌床100個を仕入れた。


=畑中さん提供
「地震の前から富来で何かやりたいなと思っていたんです。農業とか漁業とか、第一次産業に興味があって、調べていたら、日本産キクラゲが少ない。90パーセント以上が中国産で、国産なら生キクラゲが食べられる」
キクラゲが育つ環境は、温度が25~30度、湿度は85~90パーセント。収穫時期は6月から10月だ。1つの菌床から約2キロ収穫できる。畑中さんは、かほく市から週に3~4日通って、手入れや収穫を行った。水まきなどは母の信子さんが手伝った。
「こんなこと母には話していないんですけど」と言って、キクラゲ栽培に乗り出したきっかけを話してくれた。
「母親はもう70過ぎなんです。今は地元のスーパーで、パートで働いているんですけど、足が悪いので、いつまで働けるか分からん。キクラゲの栽培は、わりと軽作業なんで、母がリタイアした時に多少でも仕事になればなっていうのが最初でしたね。もし事業が拡大できれば、地元の人の働く場所にもなる」
生でも食べられる国産キクラゲは、金沢の有名料亭からの引き合いがあった。
まもなく2026年。キクラゲ栽培の販路拡大を目指すが、あくまで本業は鉄工溶接業だ。そして夏、壮年会会長として西海祭りを仕切る。3つの役割を担う年になる。
16歳で西海風無を飛び出し25年、「嫌だった田舎」は「かけがえのない町」に変わった。畑中さんの心には、いつも西海風無の風が流れている。

畑中さんは「のんみファーム」と、鉄工溶接業の「NHサービス」の代表を務める。「NHサービス」は「のぞみ・はたなか」の頭文字から取った会社で、建築金物の製作取り付け、亜鉛メッキ金物の加工などを行う。
のんみファーム
志賀町西海風無ル-2番地
nonmi.farm000@gmail.com
NHサービス
かほく市松浜ニ28番地10
nh.service000@gmail.com
携帯 080―5344-7000
〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)
1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」

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