#31 この町に恩返しがしたい ヒトもモノも全力で運びます

 

戸坂隼斗さん 能登金剛交通、戸坂運送店専務

「揺れが収まったと思ったら、嫁から電話がかかってきて、『家、つぶれた!』って……。実際には立っていたんですけど、ぐちゃぐちゃになって、つぶれたような感覚だったらしくて」

悲痛な電話を能登空港で聞いた。まさかこの後、空港で一夜を明かすことになるとは思ってもいなかった。

戸坂隼斗さん。志賀町給分(きゅうぶん)で運送事業を営む戸坂家の後継ぎとして、婿養子に入った。現在は旅客運送事業の(有)能登金剛交通、貨物輸送事業の(株)戸坂運送店、2社の専務である。能登金剛交通は、能登空港と能登各地を結ぶ予約制の乗合タクシー「ふるさとタクシー」を運行している。

2024年1月1日、戸坂さんは、ANA便の乗客を空港で降ろしたところで、大きな揺れに襲われた。

「天井からパネルが落ちて来て、ガラスも割れて、ターミナルビルはめちゃくちゃでした。みんなしゃがんでいる中、僕はしゃがむこともできず、ふらふらしながらずっと立ったままでした」

ターミナルビルの電源が失われ、館内はほぼ真っ暗になった。乗客、出迎えの人たち、避難してきた周辺住民も合わせて約600人が駐車場で揺れが収まるのを待った。その後、警察からは周囲の被害状況が不明のため、空港から出ないよう指示が出された。

「車は絶対に動かさないでくれ、構内から一切外に出ないようにという指示でした。動くことができない、周りの状況を確認することができない、どうすることもできない状態でした」

車がある人は車に、ない人は空港内に停まっていた大型バスやマイクロバスに避難した。石川県やANAなどが備蓄していた毛布、水、乾パンなどが配られた。

「ふるさとタクシー」は、能登金剛交通など5社が運行を担当している。運転手5人が1台に集まって、テレビを見みながら、まんじりともせず朝を待った。

1台に乗り一夜を明かす「ふるさとタクシー」の運転手。テレビには「大津波逃げろ」の文字も=1月1日午後5時ごろ
能登空港に足止めされたバス、タクシー=1月1日午後8時ごろ
一夜明け、空港に設置されたホワイトボードには道路の状況や使用できるトイレの場所などが書き込まれた=1月2日午前8時ごろ、いずれも戸坂さん提供

2日朝、早々に空港を出たのかと思いきや……。

「それがですね、朝起きても車を動かしちゃ駄目だっていう。何があるか分からないから、ここにいてくれって。でも僕も帰りたかったし、年代の近いドライバーさんと『帰ろうか?』って話をして、『じゃあ歩いて帰ろう』って言って空港を出たんです」

午前10時半過ぎ、「志賀町まで8時間ぐらいで着くかな」と思って歩き始めた。途中、目にしたのは土砂崩れを起こした斜面、地割れが発生した道路、1車線が崩落し倒れそうになった電柱……、変わり果てた風景だった。

片側が崩落している道路や亀裂が走っている道路(1月2日、輪島市内)=いずれも戸坂さん提供

空港を出で2時間余り。県道303号を約10キロ歩き、穴水町を過ぎたところだった。出会ったのは義父の車だった。空港まで戸坂さんを迎えに来てくれたのだった。

「電話は通じないし、インターネットもつながらない。ラインとショートメッセージで『歩いて空港を出る』って送ったんですけど、実際は届いてなかったみたい。たまたま合流できたんです。志賀町への道は県道一本なんで……。本当にたまたま」

戸坂さんが仕事を再開したのは1月10日。応援に来た川崎市の職員を志賀町から輪島市まで送り迎えする仕事だった。しかし待っていたのは、地獄のような渋滞だった。

1月10日、仕事を再開したが、道路は緊急車両も動けない大渋滞=いずれも戸坂さん提供

「ずっとこの状態でした。本当に1センチずつしか進んでないんじゃない?みたいな感じです。輪島まで8時間かけて行って、また8時間かけて戻ってくる。合わせて16時間ですよ」

戸坂さんは1992年(平成4年)岐阜市生まれ、名古屋の大学を卒業し、システムエンジニアの仕事に就いた。大学時代に知り合った未咲さんと結婚し、2017年(平成29年)に戸坂家の婿養子に入った。未咲さんは4姉妹の3番目で、姉2人はすでに県外に嫁いでいた。

能登に移り住み、運送業の後継ぎになることに抵抗はなかったんですか?と聞くと……。

「“考えなし”だったなって思います。名古屋で働いていたときは、“朝マック”を食べて通勤していたんですけど。ここは1時間かけて行かないと……」

「絶望的でしたね」と笑うが、移住1カ月で大型の免許を取り、後継ぎとしての仕事を始めた。ただ、人付き合いは苦手だったという。

「知らない人に知られているっていう恐怖。『戸坂のあんさま』って言われるんです。知らない人から、突然、話しかけられて……。『誰だろうな?』って思いながら、1年間は怯えていました」

「あんさま」とは能登の言葉で、若い兄ちゃん、長男を意味する。地元の人たちとの付き合いに気後れを感じていた戸坂さんを大きく変えたのは新型コロナウイルスの感染拡大だった。

「会社はスクールバスとコミュニティバスを運行していて、それは通常通り動いていたんですが、僕は観光をやっていたので、仕事がなくなったんですよ。何をしたらいいんだろうと思って」

このままでは駄目だと思って始めたのが、運行管理の勉強だった。会社経営者として、運転士の健康状態の確認、勤務時間や休憩時間の管理、運行スケジュールの作成・調整などを学んだ。

「僕はバスに乗ることしか考えていなかった。ただの運転手だったんです。運行管理とか、法律のこととか、ちゃんと勉強しようと思った」

そして、頭をよぎったのが、「もし、この会社を任された時、相談できる人、頼れる人はいるのだろうか?」ということだった。5年間、誰ともちゃんとした付き合いをしてこなかったことに気づいたという。

2022年(令和4年)、富来商工会の青年部に加入した。

2024年の元日に発生した能登半島地震。

青年部のグループラインで連絡を取り合い、その日の出来事を報告したり、連れ立って金沢の風呂へ行ったり、一緒に飯を食ったり。「時には不安を打ち消すように、ただただ会って、笑っていたこともありました」という。尻込みしていた人付き合いが、やがて腹を割って話せる「かけがえのない関係」へと変わっていた。

2025年11月26日。戸坂さんの姿は、岩手県にあった。商工会青年部主張発表全国大会に中部ブロックの代表として出場した。

《戸坂さんの発表より》
私が、なぜ今、石川県の富来で全く畑違いである運送業の役員をしているのか? よく聞かれるんです。

「運送業に興味があったの?」… いいえ、全く興味ありませんでした。

「運転が好きだった!?」… これも全然です! なぜならペーパードライバーでしたから! じゃあ、なぜここにいるのか? …簡単な話で、妻にほれていたからです!

ときには笑いを誘いながら、能登に移住したいきさつ、コロナ禍のこと、商工会に加入したきっかけ、能登半島地震のこと、8年間をまとめ発表した。タイトルは「石川県民への道」。商工会の仲間の前で発生の練習をし、大会にはその仲間が駆けつけた。残念ながら最優秀には届かなかったが、会場は拍手で包まれた。

戸坂さんは、こんな言葉で発表を締めくくった。

私を温かく迎え入れてくれたこの町に、今こそ、精一杯の恩返しがしたいと思っていま す。だからこそ… ヒトもそして、モノも、全力で運びます!

能登金剛交通

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〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)

1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」


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