向 栄子さん 能登リゾートエリア増穂浦
「家の目の前に護岸のための消波ブロックがあるんです。海までの距離は10メートルちょっと、海抜は3メートルくらいですね。東日本大震災のような津波がきたら、うちなんか全部流されて、もうだめです」
志賀町観光協会が運営するキャンプ場、能登リゾートエリア増穂浦の向栄子さん。自宅周辺の地図と航空写真を用意して、取材に応えてくれた。
写真を広げると、6軒の住宅が肩を寄せるように並んでいる。そのうちの1軒が向さんの家で、眼前に日本海、背後に急斜面が迫る。向さんの家を間垣が取り囲んでいる。間垣は竹を編むように隙間なくならべた垣根のことで、日本海の強風から家屋を守る伝統的な奥能登の風景だ。向さんの家の上に町道が走っていて、さらにその上に4軒の住宅がある。海に近い6軒を「下(した)」、上の4軒を「上(うえ)」と呼んでいる。合わせて10軒の集落が志賀町生神(うるかみ)だ。
神が生まれると書いて「生神」。集落には「お産の井戸」と呼ばれる井戸や、安産の神を祀った「生神社」がある。生神は「産神(うぶかみ)」がなまったといわれている。

2024年1月1日。海辺の集落を能登半島地震が襲った。向さんはご主人と次男の3人で元日の午後を過ごしていた。
「1回目も、それなりにガツンときたんですけど、2回目はさすがに天井が……。2階建てのうちなんですけど、潰れるかと思いました。恐ろしかったです。このままだと私、下敷きになって死んでしまうわって思ったほどの揺れでした。で、とにかくソファーから起き上がろうとするんですが、沈んでしまうので、揺れと一緒になってなかなか起き上がれなくて。近くに柱が一本あって、柱と肘掛けにしがみついて、やっとこさ起き上がったんです」
頭をよぎったのは津波の恐怖だった。
生神地区の指定避難所は、富来防災センターだが、途中でがけ崩れが発生していることが分かり、反対方向の旧福浦小学校へ避難することを決めた。旧福浦小の体育館入り口にはテントが張られていて、石油ストーブが置いてあった。
「体育館はいっぱいの人でした。それで運動場に何列にもなって車を停めて。生神から避難したのは5軒で、お隣さんは小さいお子さんがいたので、体育館に行ってもらって。あとはみんな車中泊でした。寒くてエンジンはかけたままでした」
津波の予報では4~5メートルの予報だったので、家は全部流され、なくなっているかもしれないと思い一夜を過ごしたという。

翌日、富来防災センターへ行ったが、ここもいっぱいで入れず、「下」の集落の人たちは、自宅を上がったところにあるバス停前の待避所に車を並べ、車中泊をした。懐炉や防寒着、毛布などを車いっぱいに詰め込み、寒さをしのいだ。
「結構、余震がありましたからね。家は本当につぶれるかもしれないと思って、それなら車で泊まった方が安心やって。電気もこんかったし。食べ物は、おせち料理とか、家から取ってきたりして生活していました」
海の向こうに見える志賀町西海地区は停電しておらず、対岸の灯りを切ない思いでみつめたという。

一方、生神の「上」の4世帯は、一軒の家の車庫にストーブやカセットコンロを持ち寄り、生活していた。志賀町に自主避難所の申請をし、食料や生活物資が支給されるようになったという。支給の物資を取りに行くのも向さんだった。町役場からは、被害状況の確認や、住民の健康チェック、特定疾患該当者の様子を尋ねられることもあった。というのも、向さんは防災士の資格を取得していて、行政との連絡役も担っていた。
向さんは1958年(昭和33年)志賀町生まれ。2018年(平成30年)に、夫のすすめもあり、防災士の資格を取った。
防災士とは、災害への備えや対応に関する知識と技能を身につけ、地域や職場で防災活動を推進する民間資格で、1995年の阪神・淡路大震災を契機に創設された。能登半島地震で向さんは地域と行政機関との連絡役を担った。
「地震の発災当初は、役場に電話かけても、防災を担当する部署になかなかつながらなくて。仕方がないので他の部署の、健康福祉課に回してもらって、『生神はここへ行きますから、この地区のここの部分はこっちに行きます』っていう連絡をさせてもらいました。役場の方からも『今、生神地区はどんな風になっていますか?』っていうことを聞いてきました」
向さんが防災士の資格を取ろうと考えたのは、今住んでいる家の立地条件が大きい。
「私が住んでいるところが急傾斜地で、う回路がない。一旦火災が発生すると消火活動が大変困難で、海も近く津波の影響を受けやすい地区だったことから、少しでも地区の防災に関わることができたらいいと思って」
永年、志賀町の観光に携わってきた向さんに、「地震で変化したことはありますか?」と尋ねると、金沢から来たというあるご夫婦との出会いを話してくれた。
「地震から1年ほど経ったころ、家の前で岩ノリを干してたんです。そうしたら『これ岩ノリやね』って話しかけてきた奥様がいたんです。地震の被害を心配して生神集落を訪れたそうで、ご主人は一生懸命に間垣の風景を写真に撮っていたんです。それで、『この辺の風景を描いて、毎年のように「志賀町を描く美術展」に出品される方がいるんですよ』って言ったら、『実は私、去年の秋に間垣を描いて、その美術展に出展したんですよ』って言われて、驚いたんです」
「志賀町を描く美術展」は、志賀町の風景や文化を題材にした作品を募集する地域密着型の美術展だ。志賀町の魅力をPRするため毎年開催されていて、作品は志賀町や石川県立美術館で展示される。向さんも鑑賞に訪れていて、間垣の絵をよく覚えていた。別れ際に岩ノリを渡した。
その後、その奥さんは向さんとの出会いを綴って、北陸中日新聞の「くらしの作文」欄に投稿し、掲載された。
一般道からは見えない崖の下、海沿いの狭い土地にひっそりとたたずむ生神集落があります。たまたま一人のご婦人に出会い、お話ができました。
私の夫も「志賀町を描く」展に出品したことを話すと、展覧会を見に行かれたこと、さらに夫の絵を覚えておられて話が盛り上がり、うれしくなりました。
別れ際、『今日採ってきた』とナイロン袋にひと握りの海藻を入れてくださいました。湯通しして二杯酢で食べると磯の香りがぷーんとしました。
神が生まれる所、生神とかいて「うるかみ」と読み、富来で「富が来る」最高のところと教えられ、「なるほど」と納得しました。
(2025年2月13日付 北陸中日新聞より)
「地震のことを気にかけて、こうやって志賀町を訪れてくださる方がいる。そんな方を大事にしなきゃなと思う」

能登金剛、岩ノリ、間垣のある風景……、志賀町には観光資源がたくさんある。向さんは言う。
「出会いは大事ですね。もっともっと、お客さんに来てもらえるような仕組みづくりをしないと」

能登リゾートエリア増穂浦
増穂浦リゾートは、日本海の美しい海岸線を一望できる絶好のロケーションにあります。 広がる青い海と雄大な自然に包まれながら、キャンプやバーベキュー、星空観察など、さまざまなアクティビティをお楽しみいただけます。日常を忘れ、自然と共に過ごすひとときが、心をリフレッシュさせ、新たなエネルギーを与えてくれます
https://noto-resortarea-masuhogaura.jp
〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)
1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」

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