#27 文人に愛された宿「湖月館」 再起へ動き出す 

 

畑中志朗さん 美佳里さん 旅館「湖月館」

文人に愛された志賀町富来地頭町の旅館「湖月館」が再起に向けて歩みだした。一時は廃業して、金沢で飲食店を営もうかとも考えた。再起を決意させたのは、たくさんの励ましの声だった。

2024年1月1日、4代女将の畑中美佳里さんは台所でおせちの準備をしていた。先代夫婦やご主人の志朗さんの妹夫婦、帰省した4人の子供たち約20人が集まっていた。そんな夕暮れ時の団欒を能登半島地震が襲った。

「とりあえず外に出ようと思って。勝手口から出たら、黄色い壁がドーンと落ちてきたんです。びっくりしましたね。頭に当たっていたらと思うと……。腰が抜けたみたいになって、尻餅ついてしばらく起き上がれなくて」

「津波がくるぞー」という声に押され、近くの高台へ避難した。津波警報や余震が落ち着くのを待って防災センターに身を寄せた。

翌日、美佳里さんが目にしたのは、変わり果てた湖月館だった。土の壁は崩れ落ち木造の骨組みがむき出しになっていた。電飾の看板は大きく傾いていた。

土壁が落ちた湖月館=畑中さん提供

厨房は炊飯器、ポット、調味料、食器類、缶詰、プラスチック容器……あらゆるものが散乱していて、足の踏み場もない状態だった。

廊下は、吊るしてあった「通路誘導灯」が天井ごと落ち、倒れた戸が通路を塞いでいた。

客室は2階に8部屋あったが、障子戸が枠から外れ、壁際や床に倒れ込んでいた。床の畳には土埃が落ちていた。全壊の判定だった。

いずれも畑中さん提供

「もうダメだと思いましたね。どうしたらいいかなって感じです。これを直すのは不可能だなあっていうことと、仕事はできんかなっていうのも思いました。何も考えられなかったです」

湖月館に貼られた通称「赤紙」(応急危険度判定表示)=畑中さん提供

美佳里さんは1966年(昭和41年)、富山市で生まれた。金沢で短大生活を送っていたときに、志朗さんと出会い、若女将として嫁いできた。

「私たちが四代目ですね。湖もないのになぜ湖月館なんやって、みんなに言われるんですけど、旅館を興した畑中寛政が俳句をやっていたんです。その俳号が『湖月』なんです」

解体した蔵から出てきた文書
「太閤記」や「柄澤照覚 昭和三年御壽寶」の文字が見て取れる

湖月館の創業は1940年(昭和15年)だ。初代が俳句をたしなんでいた縁で多くの文人らが訪れた。小説や随筆で名作を残した福永武彦(1918〜79年)もその一人である。

福永は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)に初めて湖月館を訪れ、その体験を基に随筆「貝合わせ」を書きあげた。「貝合わせ」は中学、高校の教科書にも掲載された。増穂浦海岸の美しい情景と、先代女将との出会いがつづられている。

《随筆「貝合わせ」より》

見渡す限り、遠くまで砂地が続き、左には日本海が、波静かとはいいながら沖合には白く吠える波頭を見せ、右手には背の低い松林が砂丘の上に細長く続いている。そして足許を見ると、これが砂か貝か見分けがつかないほど、小さな貝殻で埋め尽されている。

私は波打際に近いあたりを、時々腰を屈めて貝殻を拾いながら歩いて行ったが、立ち止れば必ず綺麗な貝殻が数限りなく眼につくのだから、殆ど一歩も進めない。

(略)

宿屋に戻って土地の俳人の句集などを繙いているうちに、バスの時刻になった。気の毒なほど安い宿賃を払い、お土産だという例のビニール入りの貝殻まで貰って、この素朴な宿屋をあとにし、北へ行くバスに乗り込んだ。
今でも私は、その時の貝殻を並べてみては、湖月館というあの小さな宿屋と、むすめむすめした若いお嫁さんのことを、思い出すのである。

「むすめむすめした若いお嫁さん」というのが先代で、大女将の幸子さんだ。現在は内灘町のみなし仮設住宅で暮らしている。美佳里さんは言う。

「歴史とかそういうものは、なかなか作れないから、守っていかなくちゃいけないなって、大女将はそういうことをずっと言っていました。初代、2代目、3代目と築き上げてきた旅館だから、その歴史とか伝統とか文化というのは、本当に大事なもんやって。でもそれは湖月館にとって大事じゃなくて、町にとって大事なものなんじゃないかって、いつも言っていました」

しかし美佳里さんは、資金繰りなどを考えると、再建に前向きにはなれなかった。廃業も考えたという。

「3月ごろだったかな、『なりわい補助金』の説明があるっていうので、一応、聞くだけ聞こうと思った。金沢で飲食店みたいなものができないかなって。そんな話をしていたら、金沢の友達が『こんな物件どう』、『ここは居抜きで、すぐ店できるよ』とかそんな話をいただいて、物件を見に行きました。でも主人はやっぱり金沢でするのは抵抗があったんでしょうね。今までやってきたことはできるけど、年を取って新しいことにチャレンジするのは、もっと大変だと思ったんじゃないかな。やっぱり富来で生まれ育っているし、富来から離れて商売するのは嫌だったんじゃないかなと思って。私には『もうお前、旅館せんがやったら、俺一人でするわいや。お前、好きなことせいや』って感じ」

美佳里さんも再起を決意した。背中を押したのは、次々と届いた励ましの声や、メールだった。

◆昨年一昨年とお世話になりました〇〇です。心配しておりますが、電話するのも控えたほうが良いと思い書き込みさせていただきました。今年もお世話になろうと思っていました。大変でしょうが頑張ってください。何かできることがあれば言ってください。

◆去年11月4日に、そちらに泊めていただいた〇〇と申します。その際には先代女将に貴重なお話をたくさん伺ったり、大変美味しいお食事を堪能したりと、素晴らしい時間を過ごさせていただきました。あの湖月館が全壊認定とのことで、非常に悲しく、胸が塞がる思いです。大変かと存じますが、旅館が再開される際には、ぜひまた訪問したいと思っております。

◆宿は神社の近くなので地盤は良いだろうと、希望を持っていましたが、やはり今回の地震には耐えられなかったようですね。湖月館は歴史ある素晴らしい宿なので、再建できることを心からお祈りしています。今後、宿を再建、再開するようであれば是非ご連絡ください。帯広のマルセイバターサンドを沢山持って泊まりに行きます。

(湖月館に届いたメールより抜粋)

富来領家町で新しい旅館の建設が始まっている。もう一度、富来で再建しようと決めた理由を美佳里さんはこう話す。

「私は4人の子供がいるので、その子供たちが帰って来るところを残したかった。でもそれは子供たちだけではなくて、地震で富来を離れた人たちが戻ってこられる場所を作りたいと思ったからなんです」

新しい旅館は木造2階建てで、昼には地元の人が気軽に立ち寄れるカフェも設ける。年春にはオープンの予定だ。

「夜もすがら 春のしるべの風ふけど 増穂の小貝 くだけずにあれ 武彦」
幸子さんに贈られた歌を刻んだ石碑。新しい旅館に移設する(湖月館HPより)

旅館「湖月館」

湖月館は、能登半島・志賀町にある小さな宿でございます。
地震発生直後より多くの方々に多大なご心配、励ましのお言葉を頂き、心より感謝申し上げます。

℡ 0767-42-0026

https://kogetsukan.com/


〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)
1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」


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