小堀正宏さん 京子さん 御菓子のこぼり
「火星人」が、クリームチーズの入った餡をバターと練乳の入った皮で包み、次々とまんじゅうを成形していく。「火星人」とは自動で餡(あん)を包む「ロボット包餡機(ほうあんき)」のことだ。「火星人」は1分間に19個のペースで、「御菓子のこぼり」の看板商品である「チーズまんじゅう」を生み出す。
2024年1月1日、志賀町富来地頭町の老舗和菓子店を能登半島地震が襲った。
「あの地震が、大みそかに発生していたら、大変なことになっていましたね。蒸し器が倒れて、熱いコメが飛び散ってスタッフにかかっていたらと思うとぞっとします」
そう話すのはご主人の小堀正宏さんと妻の京子さんだ。毎年年末の4日間は、スタッフを増やして対応している。かつては、NHK紅白歌合戦の放送が始まっても仕事をしていたという。
「うちは12月28日から31日までの4日間は繁忙期なんです。個人の方からは『神様、ひとかさ』、『仏壇、ふたかさ』、『床の間に大きいの、ひとかさ』と餅の注文が入るんです。それから神社やお寺、スーパーも。お供え用ですね」
「かさ」とは「重ねる」のことで、鏡餅など上下1組の餅を数えるときの単位だ。
働きつくして迎えた2024年の元日。初もうでにも行かず、「さあ休むぞ」と思っているときの大地震だった。「御菓子のこぼり」は1階が店舗と工場、2階が生活スペースになっていて、家族は2階で休んでいた。妻の京子さんは、地震の瞬間をこう振り返る。
「昼過ぎに起きて、コーヒーを飲んでいたところでした。スローモーションみたいに倒れてきたみたいな印象があるんですよね。とにかく揺れが長かった。ハンガーラックが倒れて、テレビが倒れて……」
正宏さんは「冗談かと思った」と言葉少なにひと言。



小堀さん夫婦は、母を連れて高台へと避難し、その後、避難所での生活が始まった。
避難所には300人を超える住民が避難していたが、地震発生直後は炊き出しの態勢が整わず、備蓄の非常食もたちまち底をつく状態だった。見かねた正宏さんは、壊れた店に戻り、保存してあった「チーズまんじゅう」を持ち出して避難者に振る舞った。
「300個以上配った。おいしい、おいしい。ありがとう、ありがとうって、すごい喜んでもらって」と正宏さん。
正宏さんは10年以上、地頭町商店連盟の会長を務めている。地震発生以降、地域の見回りや、避難所のトイレで使うための水くみ、病人の搬送などに奔走した。京子さんはいう。
「この人は、避難所のスタッフなの?って感じで動いていました。店のことも、家のことも二の次。『なんで?』と思ったけど、私と息子で片付けしてました」
しかし小堀さん夫婦の避難所生活は、思わぬ形で幕を下ろした。
正宏さんが発熱し、病院で診てもらったところ、新型コロナウイルスと診断された。1月10日のことだった。
「避難所でけっこうな数の感染者が出たんですよ。避難所には、最初のうちは仕切りもなかったんで……」と京子さん。

避難所を出て、親戚が所有する家に身を寄せ、快復を待った。
正宏さんは1957年(昭和32年)、旧富来町の和菓子店に生まれた。高校を卒業後は東京の大学へ。ドイツ文学を勉強したというが「ドイツ語は全くしゃべれません」と笑う。その後は地元に戻り、家業を継いだ。「御菓子のこぼり」の創業は明治時代にさかのぼる。「家業を継ぐ以外の選択肢はなかった」という。正宏さんは4代目だ。妻の京子さんは1961年(昭和36年)生まれ。合併前の旧志賀町から嫁いだ。
「御菓子のこぼり」が、ロボット包餡機「火星人」を導入したのは、2006年(平成18年)だった。これを機に、「コーヒーにあう洋風の菓子を」と製造を開始したのが「チーズまんじゅう」だ。志賀町のふるさと納税の返礼品としても人気だ。

2024年の能登半島地震。店舗兼工場は大規模半壊の判定だった。しかし機械は「火星人」を含めて全部、奇蹟的に動かすことができた。2月4日、水道の復旧をきっかけに、菓子作りを再開した。スーパーで販売したいがら万頭は初日で完売した。
「1か月以上御菓子作りができなかったんで、本当にうれしかったです。地元の人が地震前と変わらず買ってくれて……。感動的でしたね」と京子さん。正宏さんも静かにうなずいた。
現在は仮設の工場で菓子を作っている。廃業を考えたことはないのですか?と聞いてみた。
「廃業を覚悟しましたね。私、LINEでアルバイトを探したんです。でも、その時に調べた事が良かったんです。60歳を過ぎたら、なかなか思うような仕事がなくて、『あー、やっぱり慣れ親しんだ仕事がいい』ってつくづく思った」
そんな京子さんとは対照的に、正宏さんは「廃業は考えなかった」と言う。「だって、菓子作りの他に何もできん」と笑う。
「私は心配性というか、いろいろ考えるタイプです。良くいえば、危機管理能力が高いといえます。でも、この人は楽天家タイプなんで、2人のバランスがちょうどいいのかもしれませんね」と京子さん。
インタビューしていると、8割から9割は京子さんが話し、正宏さんは時折、口を挟むだけ。前に出ることが苦手なタイプかと思いきやそうではない。京子さんいわく。
「人望があるというか……。ミニバスケットの監督が週3回、小学生に教えています。それからお寺の門徒総代、地頭町商店連盟の会長、主任児童委員は3年満期のところを9年もやったんです。富来商工会の副会長も。昔から『あんたのところの旦那、いろんなことやって、仕事している暇あるんかいね』っていわれた」
「ミニバスの監督は地震を機に引退した。体育館が使えなくなって」と正宏さん。京子さんが続ける。
「子どもが学校行っていたときはPTAの会長とか、教育委員もやって。じいちゃんもそうやったね。頼まれると断れないというより、うちらは地元の人から恩恵を受けて商売をしているので、地域に貢献したいというか、お返しの気持ちが強いんです」
そんな地域への思いは、長男の一馬さんにも受け継がれているという。地元の消防団や富来商工会青年部の部長などをやっている。しかし今年7月、脳出血で倒れ、現在は入院生活を送っている。
「地震以上に辛いですが、地域の多くの人々の励ましが力になりました。おかげさまで今は少しずつ快方に向かっています」と京子さん。
「自分が避難所生活するなんて、テレビの中の世界だと思っていました。でも避難所生活は良い経験だったし、水がない生活を1カ月ぐらい送ったのも良い経験でした。水が出るのは当たり前じゃないんだと分かったんです。この先何があっても、原点はみんな命が助かったという、そこへ戻れば、安定した落ち着いた気持ちになれる。それを心に誓って。だから、落ち込むなんて無かったですね。お菓子を作るっていうのが喜びですよ」

今年9月、富来地頭町の商店街一画にあった店舗は公費解体が始まった。来年、新しい店舗で再スタートする予定だ。「チーズまんじゅう」は、県外から応援に来る自治体の職員や工事関係者が、お土産として買い求めていく。県外からも注文が入る。
「御菓子を作ることを喜びとして生きる」。小堀さん夫婦の言葉が、いつまでも心に揺れ続けた。

御菓子のこぼり
創業明治 100年以上続く老舗和菓子屋
石川県羽咋郡志賀町富来領家町甲59番地1(仮設店舗)
TEL.0767-42-0025
営/9:00〜19:00
休/第1日曜・第3日曜
https://www.instagram.com/okashi_no_kobori
〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)
1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」