#20 解体した家屋の廃材を再生し作った「富来椀」

 

田中俊也さん 木地師

海岸へと続く下り坂の途中に、古い民家の母屋や納屋を改装した工房がある。50メートルほど下ると砂浜に出る。眼前には日本海が広がる。工房の主は木地師の田中俊也さんだ。木地師とは、ろくろを使って原木を削り、器や盆などの木地を成形する職人のことだ。
2024年1月1日、海辺の暮らしは一変した。能登半島地震、そして大津波警報―—。

「おせちを食べ、家族でゆっくりしていたんです。妻は台所でジャムを作っていた。そのときグラっときて、僕は上の子2人を抱えて机の下にもぐって、妻は一番下の子を抱えながら、食器棚をずっと押さえていました。やばい、潰れるかもしれないっていう恐怖感を抱きながら、収まるまでずっと待つしかなかった。長かったですね、まだ揺れるんかって」

地震で瓦が落ちた志賀町笹波の工房=田中さん提供
お椀や木地が散乱した工房=田中さん提供

家族5人は車で工房を出て坂を上がると、集落の人たちが集まっていた。しかし、その中に、ある家族の姿はなかった。

「海沿いに2軒家があって、奥の1軒には足腰の弱いおじいちゃんたちがいるんです。津波がきたら終わりなんで、『ちょっと行ってくるわ』って言って、助けに向かおうとしたら、子供たちが『お父さん!行かないで!行かないで!』って引き止めるんです。でも、ほっとくわけにもいかんし」

娘たちのすがる声を振り切り、救助に向かった。坂を下り見えてきた海の風景は一変していた。普段は海に沈んでいる岩が出現していて、「波が引いたんだ」と思い、死の恐怖が頭をよぎった。高齢の2人を助け出し、一家は避難所へと身を寄せた。津波の引き潮だと思ったのは、岩が隆起して景色が変わっていたのだということが分かったのは、後日になってのことだった。

田中さんは1986年(昭和61年)大阪生まれ。高校を卒業後、金沢美術工芸大学で漆を学び、卒業後は加賀市の石川県挽物(ひきもの)轆轤(ろくろ)技術研修所で腕を磨いた。加賀市内で働いていたが、その時から能登で暮らそうと計画していたという。
 
「土曜日に加賀市を出発して、空き家バンクを見ながら家探しをして、土曜日に車中泊して日曜日に帰るみたいな生活を3年間ぐらい続けていたんです。それで輪島、珠洲、能登町、七尾とか回って、最終地点で志賀町に来て、笹波の空き家バンクの写真があったんで、探したんですけど、場所が分からず、集落にある商店に聞きに行ったら、買い物に来るおばあちゃんとか、おじいちゃんがいっぱい集まって来て、一所懸命に探してくれたんです」
 
空き家バンクに登録してあった家は、すでに借り手がいたが、集落の町役場に勤めている人も巻き込んで、いろいろ当たってくれて、行きついたのが現在の住まいだった。
 
「見せてもらったら、理想の家でした。納屋があって、離れがあって……。ここでろくろの仕事して、あそこで漆の仕事して、みたいな想像がつきました。すごい海が近いロケーションも気に入って妻と『いいとこだな』、『あー、もうここだね』って、ばちっとはまった感じです。人との繋がりで、ご縁で、ここに来れたっていう感じです」
 
志賀町笹波での移住生活が10年目を迎えた2024年1月1日の能登半島地震で“理想の住み家”は大きく損傷した。倒壊こそ免れたものの、母屋の中は物が散乱し、離れと納屋の瓦はほとんどが落ちていた。
一家は近くの避難所に身を寄せた。当時三女は1歳だった。「泣き声で回りに迷惑をかけるわけにはいかない。小さい子どもがいる僕たちは支援する側にはなれず、支援されてばかりだ」と思い、2日後に加賀市の知人宅へ移った。その後は妻・千恵美さんの実家がある青森へ。そして2月、田中さんの両親を頼って京丹後市へ移った。
京丹後市で生活を再建しようと決め、長女を現地の小学校に入学させた。工房の後片付けのため京都と石川を行き来する生活がしばらく続いた。

取引先がある輪島市も大きな被害を受けていた。工房が損壊し廃業を決断した蒔絵師や、輪島市を離れて避難している職人も少なくなかった。地震発生から1カ月ほどしたころ、輪島の被災地を訪れ惨状を目の当たりにした。「能登から人がいなくなり、伝統もなくなってしまうのではないか……」と胸がざわついた。

地震の火災で焼野原のようになった輪島朝市通り=田中さん提供

田中さんは、能登の被害を知るにつけ、後ろめたい思いを募らせていた。

「逃げているっていう思いがあったんです。志賀町の皆さんは、町に残ってボランティア活動したり、復旧活動したりしているのに、自分たちは、京都で普通に生活しているっていうのが、ずっと後ろめたいという気持ちで、なんか僕らにも出来ることがないかなと思っていたんです」
 
幸いなことに、地震の恐怖がトラウマになり最初、「能登に泊まれるか?」ときいたときには「泊まれない」と言っていた長女も、何度か能登に足を運ぶうちに、「うん、泊まれる」となり、そのうち「帰りたい」と言い出した。

「僕らは、京丹後に逃げられたんでよかったけど、こっちが地元で、ここでしか生きていけないって人たちは、トラウマとかいっていられないじゃないですか。でも、そうやって子供たちもみんな生活してるんで、それ考えたら、うちは、ありがたいじゃないですけど、心を落ち着かせる時間があってよかった」

一家は9月に志賀町に戻った。半壊になって雨漏りしていた工房はそのまま利用し、散乱していた道具や材料を片付け、何とか仕事ができる体制になったのが、11月だった。ほどなく、知人の家が公費解体されることを知った。家族のようにかわいがってくれた、両親のような存在だった。

「子供たちの面倒みてくれたり、取れた野菜をいつも持ってきてくれたり……。毎週末ではないですけど、ちょこちょこご飯食べに行かせてもらったり。師匠じゃないですけど、海のことも、船の乗り方を教えてもらいました」

「解体されている家を見たら、立派なケヤキがあったんで、『これ、お椀に出来るな』って思った。で、解体されてしまったら、もう何も残らないし、その方が一代で建てた家を、こんな形で何も残さず、ただ解体されるって、そんな悲しいことはないと思って」
 
玄関で使われていたケヤキの木材をチェーンソーで刻み、ろくろを挽いてみた。堅そうに見えたが、サクサクと、いいカンナ屑が出た。一本の柱から温かみのある丸いお椀を4個作った。

ケヤキの木材をチェーンソーで刻む=田中さん提供
一本の木材から4個の椀を作る=田中さん提供
削りだした「富来椀」=田中さん提供

「同じ木を使って、家族の分を作ったよって言ったら、『おぉー、できたか』って、すごく喜んでくれました」
 
「富が来る」と書いて「富来」。地名にちなんで「富来椀」と名付けた。
手のひらにちょうど収まる、やわらかな丸みは、被災地の祈りをやさしく包むようだ。

地震が起きて、何か心境に変化はありましたか、と聞いてみた。

「こっち帰ってきて、すごい、めちゃくちゃ喜んでもらえて、仕事先の人たちから、『ありがとう、ありがとう、帰ってきてくれてありがとう』ってすごく言われました。今まで、飯食うためとか、お金稼ぐために仕事をしているという思いがあったんですけど、『誰かにとって必要とされている自分』というのが再認識できた。お金よりも、すごいいいもの作って納めるっていう、そっちの考え方にシフトしました。もっといい仕事して、いいもの作りたい。人と人のつながりとかご縁で、今まで仕事をいただいたんだなって再認識できているんです」
 
能登を愛した田中さん。その気持ちに応えるように、能登は田中さんを迎えた。田中さんは出来上がった「富来椀」を、工房を下った海辺で撮影した。「富来椀」の丸いフォルムの向こうに能登の海が広がっていた。これからも能登で生きていく、という決意の表れに見えた。

ろくろを挽く田中さん

日月工舎 田中俊也

日月工舎、木漆工をき代表。木地師としての仕事の傍ら、自給自足に向けての歩みを発信。食、健康、畑、育児、DIYなど。

https://jitsugetsu-woki.com


〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)
1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」


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