#15 高齢者の安否確認、不審車の見回り…… 消防団員の「地震日記」

 

木谷優介さん アクセサリー作家

志賀町の福浦港から関野鼻まで約29キロの海岸線は能登金剛と呼ばれ、険しい断崖と日本海の荒波が削る奇岩が続く。能登半島国定公園を代表する景観の一つで、その中心が巌門だ。一画にある土産物店「パークイン日本海」を営む木谷優介さん、アクセサリー作家でもある。
 
2024年1月1日。晴れだった。訪れる観光客に対応するため店に出て、自宅へ戻る途中に、能登半島地震に襲われた。
 
「3時半ぐらいに店を締めて、途中でコンビニに寄って。その帰りに、緊急地震速報が鳴って。同時にすごい揺れました。車から地面がバリバリと割れるのを見て、これは大変だと思った。止まった方がいいのか、走り抜けた方が良いのか、一瞬判断に迷いましたが、走り抜けた方が良いと思って……」
 
急いで戻った自宅には両親と白山市から帰省していた姉夫婦がいた。4人の無事を確認すると、木谷さんは一人、消防小屋へと急いだ。消防小屋とは地域の消防団が活動するための施設のことで、消防車両や、災害対応に使うホース、ヘルメットなどが収納されている。火災だけでなく災害対応の拠点となる。木谷さんは、志賀町消防団福浦分団の一員である。
 
消防小屋には5人の団員が駆け付けていた。福浦分団の団員は12人だが、遠くにいたり、被災したり、すぐには来られなかった人も多かったという。
 
「区長さんが、安否確認が取れてない高齢者を見に行ってくださいっていうので、確認に回りました。翌日からは水くみです。貯水池と避難所の往復です」
 
木谷さんは地震で一変した日常を書き留めようと「地震日記」をつけ始めた。団員としての活動が克明に記されている。

【1日】15時半ごろまで仕事、16時ごろ、コンビニの帰り被災。松ノ木の交差点走行中、大きな揺れと同時に地面割れる。なんとか走り抜けて帰る。
帰宅時、〇〇さん家カワラ散乱
帰宅し家族の安全確認後、消防小屋へ向かう。19時頃一旦帰宅し巌門の店を父と確認へ、ヒサシを支える柱くずれる。店内物が散乱。建物はおおむね無事。
消防小屋に戻り〇〇さんの安否確認へ。途中津波せまる、旧小学校へ避難。津波が引いた後歩いて安否確認へ玄関に鍵がかかっていて不在。
その後消防小屋のポンプ車駐車場で待機しつつ避難所で就寝場所の拡張、エアマット作り等手伝う。
避難所の玄関ホールで就寝、寒さで寝れず。
電気、水道不通。電話繋がらない。

【2日】雨。トイレ水汲み作業。
被害調査のため区内巡回、大きな倒壊なし。
丹和坂から降りた箇所の崩れに規制線張る。
避難所広める為体育館掃除。
その後は基本運動場にてポンプ車で待機。
17時後帰宅、翌朝まで就寝。
電気、水道不通。電話繋がらない。

【3日】トイレ水汲み作業。
避難所で体調を崩した人を救急車へ乗せる。
〇〇くんと富来のコンビニへ、開店直後?で商品豊富にあった。
巌門土砂崩れの道を封鎖。
避難所の発電機の場所移動。
仮設トイレで動けなくなった人救出。
19時30分頃電気復旧、水道不通。
自宅へ戻り就寝。
電気復旧後、電話繋がりやすくなる。

【4日】午前中巌門の店確認に行く。建物これといった損傷無し。
遊覧船売店へ降りる坂ひどい地割れ。ところどころ崖崩れ。
16時ごろ消防小屋へ向かい不審者警戒の巡回を3回行う。その後帰宅。
水道不通。

(「地震日記」より抜粋)

崩れた道路の復旧作業=木谷さん提供
巌門洞窟への通路は土砂崩れのため封鎖された=木谷さん提供

「地震日記」には、消防団員としての行動、インフラの状況、天気などが記されている。他にも高齢者の安否確認、仮設で体調不良になった人の救出、不審車両の見回り、応援車両の誘導……。やらなければならないことは多岐に渡り、消防団員の活動が、地域の人たちにとってなくてはならない存在であることを知ることができる。
 
「日記は個人的にあったことをメモとして書いていただけで、特に何にしようという目的があったわけではないんですが……」
 
本人は謙遜気味に言う。
消防団に入ったのは、木谷さんにとっては自然な流れだった。
 
「こっちに戻ってきて、何もしていなかったんですが、2年ぐらい経ってから、地元の人から『消防団には入らないか?』って誘われて、『はい』って。最初は自分の歳に近い人たちが、みんな頑張っているから、自分もやらないとという気持ちです」
 
木谷さんは1978年(昭和53年)志賀町福浦港で生まれた。地元の高校を出た後、金沢の大学へ進み、卒業後はそのまま金沢でウェブデデザインの仕事に就いた。ふるさとに戻って、店の仕事を始めたのは36歳の時だった。
 
「志賀町はさくら貝が有名なんですが、母が商工会の方に習って、店で販売するさくら貝のキーホルダー作りを始めたんです。自分も面白そうだなと思って作っていたら、和倉温泉の加賀屋さんから、『商品見せて欲しい』って話があって、加賀屋さんで取り扱ってもらえることになったんです。じゃあ本格的にやろうと、こっちに戻ってきたんです」
 
あわびやさくら貝を薄く削って、樹脂で固めピアスやイヤリングにしていく。あわび貝は見る角度によって色が変わり、神秘的なブルーに視線が吸い込まれていく。

あわびやさくら貝の貝殻を加工したアクセサリー=いずれも木谷さん提供

能登半島地震で巌門を訪れる人は激減した。木谷さんのアクセサリーを販売していた道の駅や和倉温泉は、いまだ営業を再開できていないところも多い。木谷さんがアクセサリー作りを再開したのは、地震発生から3カ月が経ったころだった。最近は、金沢市の東茶屋街で販売している作品が好評だという。
 
「減災」という言葉が生まれたきっかけは、1995年の阪神淡路大震災だ。故廣井脩教授(東京大学大学院教授)が、「防災ではなく減災が必要」と提唱したのが始まりとされる。その後、2011年の東日本大震災を経て、国や自治体の取り組みにも「減災」が本格的に取り入れられるようになった。
そして2024年、能登半島地震。

「パークイン日本海」の建物は倒壊を免れたが店舗内は商品が散乱した=いずれも木谷さん提供

改めて「地震日記」を読む。

【6日】20時消防小屋へ。巡回2回目で道に迷った神戸から来た輪島へ向かう給水タンクローリーを志賀町役場富来支所まで誘導

【7日】父と母を迎えに姉の白山市へ。8番らーめんで昼食をとり福浦へ帰宅。22時ごろから雪、5cmほど積もる

【8日】20時頃消防小屋へ、20時20分から巡回 23時頃に帰宅。

【12日】〇〇さん宅付近の駐車場にて不審な他県ナンバー2台発見。念の為ナンバー控える

 (「地震日記」より抜粋)

木谷さんが食べたラーメンの温かさを思う。丼から立ち上る湯気の向こうに、ふるさとを守るという覚悟が見える。「地震日記」には1月17日までの活動が記録されている。
 
地震・津波・台風・豪雨……、自然災害は人間の力では防ぎきれない。能登半島地震を検証し、「減災」を進めるためにも、地震の記録は貴重だ。過疎高齢化が進む地域をどう守るか、住民はどう助け合うか。「地震日記」には、そのヒントが詰まっている。

木谷さん手作りのアクセサリー=「パークイン日本海」の工房
「パークイン日本海」店内にて

パークイン日本海

志賀町富来にある「パークイン日本海」は、地元の自然素材を活かした手作りアクセサリーが人気のショップです。特に、桜色の小さな貝「桜貝」を使ったイヤリングやペンダントは、旅の思い出や贈り物にぴったり。金沢銀箔を閉じ込めたとんぼ玉「のとほたる」も幻想的な美しさで好評です。すべての商品は一点一点丁寧に制作されており、ここでしか出会えない特別な魅力があります。

https://www.instagram.com/step1108


〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)

1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」


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