高山文夫さん、泉さん夫婦 ブラッスリーたかやま
時間が止まったままのように、そのホームページは今もウェブ上にたたずんでいる。 焼きたてのピザ、たっぷりのエビにパセリを散らしたパスタの写真……。
トップページにはシェフの言葉が載っている。
石川県志賀町富来地区に新しくオープンしましたブラッスリーたかやまです
ブラッスリーとは、食事とお酒が味わえるお店のこと
日本海の海を近くに眺めながら美味しいお酒と食事を提供いたします
ぜひお越しくださいブラッスリーたかやまHPより
ブラッスリーたかやまがオープンしたのは8年前の2017年7月1日だ。富来領家町に久々に新店舗がオープンしたということで、地元紙にも大きく取り上げられた。シェフの高山文夫さんは、取材に「珍しいお酒を出す大人の社交場にしたい」(2017年7月11日付 北陸中日新聞)と意気込みを語っている。
文夫さんは1964年(昭和39年)福岡県北九州市生まれ。高校卒業後に上京し、レストランやホテルで修業を積んだ。その後、東京・京橋でワインバルを営んでいたが、店舗の周辺で再開発の計画が持ち上がり、妻の泉さんの地元・志賀町に移住し、洋食レストランを始めた。泉さんは言う。
「母がおりまして、今も健在なんですが、2015年ぐらいからアルツハイマーになって、よく怪我をするようになったんですよ。それで、志賀町に戻ってくることにしたんです」
ところが文夫さんは、「逆ですよ」と言う。「逆」というのは、「母の介護のため」というより、文夫さんが志賀町にほれこみ、移住を決めたということだ。
「妻の帰省に付き添って、何度か志賀町に来ていたんです。そうしたら、自分がここを気に入ったんですよ。何といっても自然環境ですよね。能登の海きれいだし、畑も山もあるし……」
しかし東京と志賀町とは勝手が違う。戸惑うことも多かったという。
「例えばスパゲティひとつとっても、『私はふにゃふにゃの麺が食べたいの!』と年配の人に怒られたり……。東京だったらアルデンテとかいって、麺はちょっと固めにゆでたりしたりするじゃないですか。そんなことはよくありましたね」
文夫さんは開業当時のエピソードをネタに、笑いを誘う。
2024年1月1日の能登半島地震。ブラッスリーたかやまの日常は一変した。
「12月31日に、年末年始用のオードブルを作っていて、その後片付けをするために店に居たんです。最初に1回揺れて、その後に本当に大きいやつがきて、とんでもない揺れでした立っておられなかったし、歩けなかった。棚に飾ってあったものは、全部落ちて割れました。それから店の窓ガラスがすごい勢いでガシャガシャって、落ちて割れるんです。その音がひどかったですね」




話してくれたのは泉さんだ。というのも文夫さんは山梨県の河口湖のホテルで仕事をしていたという。「簡単にいうと、出稼ぎですね」と文夫さんは笑う。山梨でも能登半島地震の揺れを観測した。
「最初は電話がつながらなくて……。帰りたい気持ちはありましたけれど、交通機関、道路もだめで、帰れるような状況じゃなかった。電話やLINEでやり取りしながら仕事を続けましたね」
文夫さんが志賀町に戻ったのは1月の末だった。
「今戻ってきたら被災者が一人増えるだけで、迷惑するからまだ帰ってくるなって言われて。食料と水が無駄になるって」と文夫さんは笑う。
「そんなこと、言っていない」と泉さん。
2人の絶妙の掛け合いは、周囲の人を笑顔にする。



志賀町に戻った文夫さんを待っていたのは、家の片付けだった。店舗、高山さんの家、そして泉さんの母の実家と3軒分だ。
「畳やら、ドアやら、落ちて割れた瓦やら、借りた軽トラに積んで災害ごみの仮置き場まで毎日捨てに行くんですよ。軽トラだから、そんなにたくさんは積めないじゃないですか。だから多い時には1日に3、4往復はしたかなー。田舎の家だから、蔵があるんですよ。江戸時代から続いているようなものが、ごっそり入ってるんですよ。屏風とか、木の桶とか」


後片付けを終え家に戻ると、今度は料理をして地区の公民館へ向かう。避難している人たちへの差し入れのため料理の腕を振るう。
「この集落の公民館に家で食事できない人が集まって。そこで泊まる人もいるんです。で、自分らみたいに家に水が出て、料理を作れる人は作って持って行ったり。励まし合うというわけじゃないけど、『今日こんなことがありました』って、みんなで話をして」と泉さん。
「6時半くらいから、みんなで集まって、ちょっと一杯やって。何を持っていったかなー。唐揚げとかハンバーグとか……。ローストビーフも持っていったね。でも、いい時間だったね、今考えたら。こんなことでもないと絶対にありえない」と文夫さん。手料理を作る生活は約1カ月続いた。
ブラッスリーたかやまが「道の駅 とぎ海街道」の仮設商店街の一角で営業再開したのは、9月14日だった。
「店は損傷がひどくて再開できる状態じゃない。だから選択肢は2つしかないんですよ。仮設商店街で店をやるか、移住を白紙に戻して、東京に帰ってやり直すか。でも、お母さんの件もあるし、選択肢は事実上は1つしかなかったんです。ここで生活していくんだと」と文夫さん。
「落ち込むことはなかったんですか?」と聞くと、「そんな暇はなかったなー」と話す。
笑顔の絶えない2人だが、復興の歩みは、決して笑顔だけではなかった。
「地震があって、『頑張らなくちゃ』じゃないけど、毎日動いていましたから。でも、ある日突然、体が動かなくなったんです。めまいがして、病院に運ばれました。あと、虚血性大腸炎になったり……」と泉さんは言う。仮設のトレーラーハウスで営業できるのは3年という条件付きだ。その後のことは、まだ決まっていない。
取材で訪ねた7月1日は、奇しくもブラッスリーたかやまのオープン8周年の記念日だった。
「早かったねー」と泉さん。
能登への移住、母の介護、大地震、そして仮設店舗での再スタート……。高山さん夫婦の8年に思いを致す。
手料理を作って公民館に通った日々を「いい時間だったね」と振り返る2人。笑顔が被災地を照らす。

ブラッスリーたかやま
ブラッスリーとは食事とお酒が味わえるお店のこと
日本海の海を近くに眺めながら美味しいお酒と食事を提供いたします。
令和6年能登半島地震により、現在は道の駅とぎ街道駐車場内に「仮設商店街」の一角でランチ、ディナー営業しております。
皆様のお越しをお待ちしております。
http://brasstakayama.notohanto.net/
〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)
1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」