#5「さくら貝に触れるのが辛かった」 再び動き出した時間

 

美智紀(び・ともき)さん 貝装飾デザイナー

さくら貝は、大きさは1~2センチ、淡いピンク色をした二枚貝だ。開くとハート形に見えることから、「幸せを呼ぶ貝」という名がつけられた。志賀町の増穂浦海岸には、多くの貝が打ち寄せることから、神奈川県鎌倉の由比ヶ浜、和歌山県の和歌浦と並んで日本三大小貝名所に数えられる。
美智紀(び・ともき)さんは、さくら貝でアクセサリーや飾り額などを制作する貝装飾デザイナーだ。

2024年1月1日。夫の実家に親族8人が集まり過ごしていた正月のだんらんを、能登半島地震が襲った。

「2階が落ちてくるかって思うぐらい。倒壊しそうで、何かにしがみついていないと、立っていられないような状況で、義理の母は私を柱代わりにして抱きつくようにしていました。本当にもう生きた心地はしなかったですね」

大津波警報が発令され、とりあえず山手へと避難した。途中に見る町の風景は一変していた。

「おぞましくて。通る場所、通る場所に倒壊している家があったり、道路が陥没していたり。亀裂や橋の段差もあって、空襲があったような感じでした」

やがて大津波警報は解除されたのだが……。

「大津波警報が解除されたと聞いて、山手から戻った時に、トイレを借りたくて避難所に行ったんです。でも『全然、中にもう入れない』って息子が戻ってきて言うんです。いっぱいで。『じゃあもう家に行こう』っていって家に戻りました」

家の中は倒れた家具や、落ちてきた物で埋まっていた。足を踏み入れることが出来ない状態だった。瓶に入っていたさくら貝は、床に散らばっていた。

さくら貝は床に散乱していた=美さん提供
貝細工の作業場は、棚などが倒れ踏み入れられない状態だった=美さん提供

家は倒壊こそしていなかったが、生活できる状態ではなかった。やむなく車中泊の生活が始まった。
家から炊飯ジャーを持ち出し、外でコメを炊き、冷蔵庫にある“大丈夫そうなもの”を出しきて食べた。普通車の前の座席に美さんとご主人が寝て、美さんの母が後部座席で寝た。「母が足を伸ばせるように」という気遣いだ。

「座席に座ったまま、窮屈な状態で、警報の音や余震の揺れもあり、ゆっくり休めることはありませんでした。たまにエンジンをかけて、防寒着を着て寒さをしのぎました」

近所には同じく車中泊する人が何人かいたという。美さんは1月3日まで車中泊を続け、それ以後は家屋の平屋部分へと移った。

美さんが地震後に初めて撮った一枚は緊急車両の列だった。

駆けつけた消防・救急車両の列=美さん提供

「消防車と救急車がすごくたくさん来てくれて、本当に涙が出るぐらいに、ありがたかったですね。こんなにたくさん県外から来てくれたんだって」

美さんは、増穂浦に打ち寄せるさくら貝を見て育った。幼いころから母親の濱口初美さんが貝細工をする姿を見て、手伝ううちに自然と貝装飾の道を歩み始めた。2010年(平成22年)に石川県の「ふるさとの匠」に認定され2017年(平成29年)には母と違った作風をと考え、のれん分けした。
美さんが作品を見せてくれた。イヤリングやペンダントは、貝殻にレジンと呼ばれる樹脂をコーティングして艶をだし、割れにくくした。また貝殻を一枚の花びらに見立て、それを何枚も集めて一輪の花を咲かせたようなブローチもある。さくら貝は「浜辺の花びら」とも呼ばれる。
しかし、美さんはあの地震以後、さくら貝に触れるのが辛くなったという。

「地震の時は1月中にふるさと納税の返礼品を発送する予定があったんですけど、それも出来る状態ではありませんでした。発注いただいてる分は3月中に発送するよう変更していただきましたが、精神的に辛いけれど、なんとか作らなきゃって作らせていただいたんです。でも、地震後は作るのに時間がかかり、形にならないんですよ。花の形もいびつになっちゃって……。さくら貝を持って手を動かす作業が上手く出来ないんです。コーティングのあんばいも納得いかなくて……。貝の装飾は、集中力がいる作業で、普段から気持ちの落ち着いてる時じゃないと出来ないんです。心がざわざわしてるときは、作品づくりはしないようにしているんです」

以前とは全く違う感覚になり、納得のいく作品が作れなくなってしまった。作業場の棚などが地震で崩れたこともあったが、精神的なものが大きく影響していた。

「何も考えられないっていうか、一歩も前に進めないみたいな感覚です。『今、何したらいいの』みたいな……。何かしないといけないんだけど、できないっていう状況でした」

そんな美さんを癒したのは海だった。

「海はどうなってるのかな。貝はちゃんと上がってるかなって、海に行ったんです。海に行く回数は、地震の前より少し増えたと思います。行くとやっぱり気持ちが穏やかになるっていうか、落ち着く時があったんです」

美さんにならって、増穂浦の海岸を歩いてみた。「さくら貝に触れるのが辛い」という言葉を思い返す。地震による環境の変化が心の負担につながったのだろうか。風景が一変した故郷の街並みを見て、喪失感や無力感にかられたのだろうか。
思うような作品が作れない時間は1年ほど続いたが、今はようやく少し落ち着いた状態になった。「やっぱり、楽しくいられる時間ですね」という。

「さくら貝って誰が見ても『かわいい』と笑顔にしてくれるし、『幸せを呼ぶ』っていわれているので、私が手掛ける商品をたくさんの人の手に取ってもらいたい。荒波にもまれても割れずに、きれいで、繊細なさくら貝のように、強く私も頑張りたい。それから、500種類以上もの貝殻が打ち寄せられる豊かな海岸、増穂の海に貝殻を探しに来てくれたらと思います。志賀町富来がもっともっと知られて、たくさんの人が来てにぎわう場所になってくれたらうれしい」

美さんの、さくら貝と向き合う時間が再び始まった。

さくら貝が打ち寄せられる増穂浦(ますほがうら)海岸にて

さくら貝小貝クラフト華

母が50年前から手がけてきた、さくら貝とレジンを用いたアクセサリーやキーホルダーの技術とデザインを受け継ぎ、現在はオリジナル作品の創作と販売を行っています。
レジンフラワー講師の資格を有し、創作活動とあわせて技術の普及にも取り組んでいます。
作品は、石川県より「ふるさとの匠」に認定され、石川県観光連盟および全国観光土産品連盟の推奨品にも選ばれています。

https://sakuragaicraft-hana.jimdofree.com


〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)

1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」


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