岡本明希さん 志賀町観光協会事務局長
2024年1月1日、恒例の初もうでを終えた午後4時過ぎだった。台所で正月のお膳の準備をしていたとき、スマートフォンが警報を告げた。緊急地震速報である。
「また珠洲市か。地震が続くな」
ほどなく揺れは収まったが、10分ほど経ったころ、2回目の警報音が鳴り、これまで経験したことのない大きく長い揺れに襲われた。

「台所のテーブルの下に潜り込んだんです。台所の、このテーブルの下に潜り込んだんですが、何かにつかまらなければ、体が支えられない感じでした」
写真を指差しながら話すのは、志賀町観光協会事務局長の岡本明希さんだ。志賀町相神の自宅で被災した。震度7の記録が岡本さんのスマホに残っている。

いたるところで天井のボードが剥がれ、柱はひしゃげ、部屋にはありとあらゆるものが散乱した。
「揺れが収まると、防災無線が津波警報を知らせてきて、『逃げなきゃいけない』と家族全員で避難することになったんです。でも玄関は下駄箱が倒れていて、靴がどこにあるか分からない。家にいた5人が全員裸足で飛び出したんです」
岡本家は建築会社を営んでいる。母屋の近くにある作業所からトラックを出して避難を開始したが、道路はいたるところに陥没や隆起があり、橋には30センチほどの段差があった。遠回りして、遠回りして、ようやくたどり着いた富来小学校には、すでに多くの人が避難していたという。
富来小学校は、原子力災害時に被ばくを避けるために一時避難する「放射線防護施設」の一つに指定されている。
「学校には備蓄の水があったし、レトルトのご飯とかあったんです。水道は止まっていたけど、電気だけは通っていたので、なんとか暖をとることはできました。避難している人の中には行政に携わっている人もいらっしゃって、いろいろ指示を出してくれました。『学校には備品があるからポットを持ってこよう、教室もたくさんあるから、ここは小さい子のクラスにしよう』とか」
自然発生的に集団のルールが作られ、規律が維持された様子がうかがえる。100人を超える人が富来小学校で避難生活を送ったという。岡本さんは3日間、富来小学校で過ごし、その後親戚を頼って羽咋市へと移った。
岡本さんは1973年、福井市生まれ。結婚で旧富来町に移り住んだ。町役場勤務を経て、2001年にオープンした三角屋根のリゾートホテル「シーサイドヴィラ渤海」で働き、12年間支配人も勤めた。5年前から志賀町観光協会の事務局長を任された。
志賀町観光協会が運営するキャンプ場「能登リゾートエリア増穂浦」は発災から約3カ月は休業を余儀なくされたが、日本の水浴場55選にも選ばれた美しい海岸線や、ケビン、高床式テント、バーベキュー場など施設は健在で、浜辺を疾走する8輪駆動の8サンドバギーやセグウェイ体験もできる。
岡本さんは地震を体験したことで考え方が変わったという。
「通常、当たり前にできていたことが、本当は当たり前ではないんだな、ということをすごく感じました。顔を洗えない、お風呂に入れない、食べ物も食べられない・・・」
岡本さんが写した画像を改めて眺める。割れて散らばる白磁のティーカップ。床に転がるシャンプーやリンスのボトル。落下物に覆われたクマのぬいぐるみ。昨日まであった日常が、失われてしまったことを思う。





もう一つ、変わったこと。能登半島地震がメディアで取り上げられ、岡本さんが各地へ出向き復興の取り組みを紹介する機会が増えたことだ。情報発信の大切さを考えるようになったという。
「東京でプレゼンをすると、『志賀町ってどこ』というところから説明しなければいけない。だからこそ、注目されている今だからこそ、チャンスだと思います。地震で能登は大きな被害を受けましたが、『いま泊まれる志賀町』って当たり前じゃない。すごいじゃないですか」。
「昨日は変えられない。でも明日は変えることができる」。そんな言葉が岡本さんの背中を押す。

能登リゾートエリア増穂浦
増穂浦リゾートは、日本海の美しい海岸線を一望できる絶好のロケーションにあります。 広がる青い海と雄大な自然に包まれながら、キャンプやバーベキュー、星空観察など、さまざまなアクティビティをお楽しみいただけます。日常を忘れ、自然と共に過ごすひとときが、心をリフレッシュさせ、新たなエネルギーを与えてくれます
https://noto-resortarea-masuhogaura.jp
〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)
1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」