上江哲夫さん カネヨ醤油3代目社長
木村美智子さん カネヨ醤油4代目
能登の甘口醤油は、繊細な刺身の旨味を引き立ててくれる。特に能登で捕れる新鮮な魚介との相性は抜群だ。そんな「能登の風土が育んだ味」を守り続けている会社がある。志賀町の最大の漁業拠点である西海漁港(富来漁港)から直線で5~6キロに位置する志賀町鹿頭(ししず)のカネヨ醤油。創業は1926年(大正15年)だ。
「おじいちゃんが醤油造りを始めた頃は、一升瓶が1日に10本売れればいいくらい。その中で、お得意さんが西海の漁師で、甘い醤油がほしいっていって」
そう語るのは、カネヨ醤油3代目社長の上江哲夫さんだ。漁師の注文に応え、現在の味にたどり着いたという。
上江さんは志賀町で生まれ。東京の大学を出て、大野醤油の協業組合で修業したあと、地元に戻り家業を継いだ。
2024年1月1日。自宅で能登半島地震に襲われた。


「おせち料理や、お酒を全部並べて、『さぁ乾杯するか』というときやったね。醤油の瓶も料理もガシャってなった」
娘で4代目女将の木村美智子さん。夫と2人の子どもを連れて帰省していたときに地震に襲われた。
木村さんは父の行動に唖然としたという。
「揺れが長かったので、家がつぶれると思いました。全員がテーブルの下にもぐって『止まれ!』って叫んでいました。でも、お父さんは、ぱーっと蔵の方に行ったんです。つぶれないと思ったんでしょうね。そのうち、『誰か来い』と言っている。でも私は『無理、無理』って。揺れが収まって外に出たら、お父さんが『棒を持ってこい。いろんな長さの棒を持ってこい』って叫んでいました。私は子供が心配で、防災センターに逃げました」
木村さんは金沢の大学を出た後、横浜のコンピュータ関連メーカーで働いていたが、2015年、結婚を機にUターンして家業を継いだ。
「『後を継いで』とは、ほとんどいわれませんでした。ただ、私は3姉妹の長女で、3人とも東京か横浜とかに出てきたので、『全員来ちゃった』って。だれか能登に残っていた方が良かったと思っていた」
「醤油造りを継ごうという思いはあったんですか?」と聞いてみた。
「そんな気持ちは『あるような、無いような』ですね。『継ぎたいような、継ぎたくないような』。今でもそうですけど、長女だし、継がなければいけないかなぁとは思っていましたが……。旦那が石川県の人でなかったら、戻ってこなかったでしょうね。しかも能登の人でしたから」
上江さんは、「俺、肩書は代表取締役やけど、事実上は……」と言って木村さんに目線を送った。会社が生き残るためには若い感性が必要だという。
「経営判断は、60歳を過ぎたら無理やね」と言うと、185ミリ入りのペットボトルが廃番になるとなったとき、100ミリにするか、ちょっと大きい200ミリにするか、判断を迫られたときのことを例に挙げた。
「娘は100ミリの小さい方っていう。それが正解と思う。だってこれからは若い人の方が、人数は多くなる。小さい分かれ道のとき、一つ一つ判断していったほうが、生き延びる可能性は高い。いちかばちかで大きい投資をするより、ちょこちょことして行ったほうが絶対に正解や」
上江さんは、経営判断とは小さな判断の積み重ねだという。
「良い後継者が出来て良かったですね」というと、意外な答えが返ってきた。
「それまで、かみさんとおばちゃんと3人でやっとったけど、だんだん売り上げが減って、このままフェードアウトしていけばいいなと思っていた。そうしたら娘が来てくれて。半年ほどはうれしかった」
えっ?半年ほど? 耳を疑う言葉だった。
「半年ほどして、はっと気づいた。売り上げが下がらんようするには『俺、ずっと働かないといけない』と。もう68歳や。老い先短いし、もう働くのは嫌や。だから、やりたいことはやりたいし、楽しい誘いは断らないでおこうと思っている」
「楽しい誘いって何ですか?」と聞くと「ゴルフと宴会と旅行やね」と言う。明るいキャラクターで、はにかみながら「もう働くのは嫌や」と言って笑うが、娘さんに話を聞くとちょっと様子は違う。
「『ゴルフしたい』と言いながら、すごい仕事もしていて、どっちなん?と思う。『ゴルフしたいなら、して』と思います。『そんなに仕事しないで』と思いますけど、今でもめっちゃ仕事してます。配達が好きみたいで、今日は配達するところないよ、といってもぴゅーって出て行って、何しに行くんや、とみんなで言っているんです」
会社経営を維持することの厳しさを思うと、まだ現役を退くわけにはいかないという責任感か。それとも、娘には自分と同じ苦労をさせたくないという親心だろうか。いずれにしろ「能登の甘口」という歴史を背負っているようにみえる。
さて、激しい揺れの中、上江さんが駆け付けたもろみ蔵だが、案の定、8本のタンクのうちの1つは空気を送り込むパイプが折れ、もろみが漏れ出ていた。上江さんは棒とタオルで応急的に穴をふさぎ、空いていたタンクにもろみを移し替えた。防災センターに避難したのは、地震発生から2時間以上が経ったころだった。


改めて写真を見せてもらう。倉庫の2階は瓦が割れたため雨漏りがしていた。瓶詰めのラインは稼働できなくなり廃棄した。浄化槽の横には大きな陥没ができていた。しかし幸いなことに工場や自宅は倒壊を免れた。



店に買いに来る客はゼロになったが、その間、売り上げを支えたのは4代目が始めたオンラインショップだった。商品を買って被災地を応援しようという注文である。「ありがたかった」と上江さん。2月になって醤油造りを再開した。
少人数でも醤油造りができるようにと機械化を進めたのは3代目・上江さんだ。最近は耐震化を考え工場に手を入れてきた。能登だけでは商売に限界があると考え、販路を拡大したのも3代目だった。現在は金沢など県内80を超える店舗がカネヨ醤油の商品を扱っている。毎朝3時、4時に起きて、1日14時間は働く。そんな父の背中を見て、4代目は育った。
「父はリスク管理とか経営とか、すごいと思う。今の工場の設備を導入したのは父で。7年ごとに借り入れをして……。小さい頃から友達に『みっちゃんとこの醤油おいしいね』って言われて育ってきたので、そう言われてなかったら、戻ってこなかったかもしれない。あまり経営状態がどうとかは知らなかったけれど、美味しいといわれる醤油がなくなるのはもったいないという気持ちはあった」
カネヨ醤油は2026年に創業100周年を迎える。「カネヨの甘口」は能登の風土が育んだ味である。親子二人三脚で、これからも100年の味を守り続ける。

カネヨ醤油
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〈ライタープロフィール〉
高橋 徹(たかはし・とおる)
1958年、石川県金沢市生まれ。北陸朝日放送で報道部長、東京支社長、報道担当局長などを勤める。記者として原発問題や政治・選挙、オウム真理教事件などを取材してきた。著書に「『オウム死刑囚 父の手記』と国家権力」